日清戦争明治維新後の日本人はチャイナを古い儒教にしがみつき文明開化に乗り遅れた国だと思っていました。チャイナが国家として弱体化はヨーロッパ諸国の東洋への進出を誘発するため、日本にもそのとばっちりが飛んできます。 チャイナの弱体は日本にとっても迷惑だと日本人は考えたのです。 そこから日本が東洋の盟主となってチャイナ・コリアの近代化を指導し日本と同盟してヨーロッパ諸国に対抗しようとする考えになって行きました。 福沢諭吉はこのような考えを新聞に積極的に書いています。 この日本が盟主になってチャイナ・コリアを指導するという考えは当時から現在まで日本人の底流に流れ続けています。 ついこの間までの日本政府のチャイナに対する度を越した援助もこれが原因です。 この日本の態度はチャイナにとって感謝半分、迷惑半分です。 日本の援助はチャイナにとって必要ですが日本がアジアの盟主になるのは「中華思想」のチャイナとしては容認できません。 チャイナの屈折した態度は現在も明治の当時も変りません。 明治維新の成功を見て日本を見習えと唱えたチャイニーズが出てきましたが、清朝の支配者は中華思想に挑戦した日本を敵視するようになりました。 そしてチャイナは「洋務論」という国家の補強策を採用しました。 国家組織は従来の儒教に基づいたものを変えずに武器などの物質だけを輸入しようとしたものです。 これによって増強された海軍は日本にとって非常な脅威となりました。 このときになって「脱亜入欧」の考え方が出てきます。 1885年(明治18年)に福沢諭吉は「脱亜論」を発表しました。 「わが国は隣国の開明を待って共にアジアを興す余裕がない。 むしろアジアから脱出して西洋の文明国と進退を共にしその支那朝鮮への接し方も隣国だといって特別扱いするのではなく西洋風にやるべきだ。」 以後日本人はこの「アジアの盟主」と「脱亜入欧」の間で揺れ動いていきます。 しかしどちらも日本との基本的な思想の違いに気がつかず実現性のないものであることでは共通しています。 そして1994年(明治27年)に日本と清は開戦しました。 当時の日本人はこぞってこの開戦を歓迎しています。 福沢諭吉は「文明と野蛮との戦いである」と理解し、キリスト教徒で「代表的日本人」を書いた内村鑑三は日本の戦いを義戦だとしています。 やはり明治人の至上命令は日本の独立だったのです。 |